「風が気持ちいいな。外の方が断然涼しいじゃねぇか」

城から海へと続く抜け道。草木の間を縫うように伸びている獣道は真っ暗だ。先ほどまで足元を照らしていた月の光は森の木立に隠され消えてしまった。狙い撃たれる事を警戒して灯りは持っていない。一人ではとても歩けなかっただろう。
夜目の効く小太郎に引っ張られる様にして進んでいる氏康は、その手を離してしまわぬ様に強く握り直した。真夏だ。二人の体温で繋いだ手の平はしっとりと汗ばんでいる。

「上ばかり見ていると転ぶぞ」
「どうせ足元も見えやしねぇよ。振り返りもせず、よく俺が上向いてるって分かるな」
「歩き方で分かる」
「ふーん」

暑くて眠れない、散歩に行きたいと言い出した氏康に同行してきた小太郎は日頃から暑いだのなんだのと言う事が少ない気がする。

「お前、暑くねぇのか」
「そんなことはないが、うぬ程には思わぬな。手を離すか？」
「そういう意味じゃねえ」
「もうすぐだぞ」
「…潮の匂いがする」

うっそうと生い茂る木々の向こう、月の光が差し込んでいる場所がある。道が開けたそこは高台で、目の前には海が広がっていた。

「あぁ！」

氏康は伸びをするように両腕を空へと伸ばした。風が浴衣の中に吹き込み布をはためかせる。

「涼しくて気持ちがいい。此処まで来た甲斐があったな！どうせなら浜まで行こうぜ」

手招きをして先に行くと、後ろから小太郎が着いてくる気配がした。


■□■


「やっぱり海はいいな」

四半時ほど海辺を散歩し、氏康は少し火照った体の熱を冷まそうと浜に寝転がった。
背に感じる砂がひんやりとしている。空は未だ暗く、星が瞬いているのが見えた。瞼を閉じて波の音に耳を澄ませてみる。そうしている間に風がそよそよと肌を撫でて吹き抜けていった。

「気持ちがいい」

熱気が立ち込めていた部屋を思えば信じられない程の開放感だ。
ふと、忘れていたはずの眠気に意識が遠のきかけた。

「これ、寝ているのではなかろうな」

目を開けると小太郎が顔を覗きこんでいる。

「まだ寝てねぇ、けど…眠くなってきたな」
「起きよ」
「このまま寝たい」

海辺の気持ち良さに本気でそう思った。呼びかけを無視して目を閉じていると、小太郎の指先が肌に触れてくる。

「仕方のない子犬よ。では眠っているがいい」
「む…？」
「明るくなる前には連れて戻ろう」

妙に物わかりの良い小太郎の返事に、寝てしまいたいという思いと、このままではマズいのでは、という思いがせめぎ合った。

「気持ちよかろう？」

考えている間にも小太郎の手は体を弄っていて、風に熱を奪われひんやりとした肌に触れる温かな感触が思わず頷いてしまいそうなほど悦い。

「こんな所でしねぇぞ」
「誰も来ぬ」
「おい、よさねぇか」

ふわふわとした眠気が拒絶を曖昧なものに変えてしまう。小太郎の方もそれを否定とは受け取っていないらしく、一向にやめる気配がない。
言わなくては手遅れになる。氏康はもう閉じかけている瞼を擦り、無理矢理目をこじ開けた。

「痛ぇから、嫌だ」

きょとん、とした小太郎の顔が映る。
不可思議な表情が少し可愛らしく見えた。

「だから…砂が入ったら痛ぇから嫌なんだよ」

少し間が空いてから小太郎が手を引く。

「うぬが以前、泣きそうにしていた理由はそれか」

そんなことまで覚えていたのかと思うと恥ずかしさが込み上げて来た。
氏康は視線を逸らすついでに頷いてみせる。

「そうだ」
「それはすまなかった」
「別にどっちのせいって訳じゃあねえ」

小太郎がおとなしく隣に腰を下ろすと、氏康はその膝に頭を乗せた。

「少しだけ、寝ていいか」
「うぬの場所だ。好きにすればいい」

ここは自分の場所。
幼い頃、鉄砲の音に気を失い、城中の者に笑われ、己の居場所を見いだせなくなっていた自分に与えられた居場所だ。
小太郎と契約したからと言って幼かった氏康はすぐに元気を取り戻した訳ではなかった。肝心の鉄砲の音が、剣の打ち合う音が恐ろしい、という根本が解決していない。覚悟の上、自刃までしようとしていたのだ。落ち込み方も軽くはなかった。

「自分のいる場所は何処にもない」

そう言った幼い氏康を、小太郎は膝の上に引き寄せ言った。

「貸してやろう。うぬの場所だ」

小太郎がくれた『居場所』という在り処は共に過ごした間、氏康に守りたいという思いを育み、今の氏康をつくった。

（もう、二度と離したくない…）

髪を撫でる小太郎の手を握り、引き寄せる。

「小太郎」
「なんだ」
「起きたらもう一度散歩して戻ろうな」

小太郎は黙って頷いた。



離したくない

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